「俺野球やりたいから、野球部辞める」〜色川冬馬〜

 

須賀川市でおこなった報告会。今回は一風変わって、私が個人的に興味のある人をも招いて、その人たちといろいろ話そう!という狙いでイベントを起こしました。一緒に(むしろ先頭で)動いてくれた林くん、ありがとう!

参加してくれたのは、国際経験の豊かな色川冬馬さん(紹介文:野球コミュニティをつくろう!~オンライン・ベースボール・アカデミー紹介~)そして元ジャイカのニカラグア戦士、阿部翔太(別名:チョタ)という福島出身の面白い人です。

それから忘れちゃならんかったのは、今回急遽(みんな結構急遽なんだけど…)話してもらうことになった福島大学の学生。野球部を辞めて自分の足でアメリカに挑戦する福原大生くん。「来てよー」って友達づてに呼んでもらったんだけど、来るなら話してもらえ!と、参加してもらいました。

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※左から色川さん、福原さん、阿部さん

そんなひとたちを呼んで、囲って、みんなで知見を広げられたらいいなと思いましてこんな形になりました。ただ「やって終わり」とか、とくに今回のような講演会チックになると「話を聞いて終わり」がイヤで、できれば定期的にみんな集まって話せるコミュニティを福島に作りたいと思っているので、なんとかこれからもいろいろ面白くなるように考えて開催していきない。また引き続きよろしくお願いします!!

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今回は、講演者の話を文字にして発信させていただきます。(よくあるインタビュー記事風にまとめたろう思っていたのに、すっかり写真とか写真とか諸々撮り損ねてた。。

ちょっと寂しい文章ばっかの投稿ですが、ぜひご閲覧ください。

 

 

色川冬馬

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■色川冬馬の野球人生

色:僕は仙台出身でして、仙台市の軟式野球、私立の聖和学園、そして仙台大学に行きました。大学生のころ、私野球好きでやっていたのに「部活に行きたくないな」と(いろんな理不尽を感じ)思い始めて、このままでいいのかなと思い始めたのが、入学して18の春でした。

そこから野球部を辞めて「メジャーリーガーを目指す」といって海外へいったところからが、人生が変わる機会でした。

 

アメリカのマイナーリーグ・独立リーグのトライアウトを受け続け、2年半かかって21(歳)のときにはじめてアメリカの独立リーグと契約でき、そのあとも、契約したと言えどもクビになったり契約したりを繰り返しながら野球を続けました。アリゾナとかニューメキシコとかテキサスとか、あとフロリダ、カルフォルニアとアメリカ中を転々とする生活をしておりました。

それでも僕は物足りなくって、ちょっと中南米の国にも行ってみたいなと思って最初にプエルトリコに野球をしに行きました。最後はメキシコで散って(笑)。

そろそろ選手生活にも区切りをつけて方向転換しないとなーと思っていたところで急に、イランで野球の指導というか、ようは野球の普及ですよね。その活動の話が来て、なんやかんややっているうちにイランの代表監督という立場を仰せつかりまして、西アジアカップに出場しました。

西アジアってどこの国があるかわかりますか?

まずイラン。ちょっと写真写ってるパキスタン。あとインド、ネパール、アフガニスタン、イラク…。お前ら戦争するんじゃないの?みたいな国にも、野球があるんです。

当時16年間で国際試合1勝だけだったイランが当時の西アジアカップで準優勝しまして、優勝がパキスタン。それで優勝チームはアジア選手権に出るんですよ、日本とかでてくる。そしたらそのアジア選手権に出るパキスタンから「今度はこっちでやってくれ」と。で、パキスタンの代表監督になった。2015年の話です。

パキスタン代表はですね、「世界大会に出場する」という夢があったんですね。世界大会に出るためにはアジアで5位に入らないといけないっていう中で、アジア選手権を戦って、なんとかはじめてパキスタンがアジア5位に入って、WBCの予選に出場権を得たということもありました。

2017年からは半年くらい香港で監督もしておりました。

(中略)

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■社会に影響を与えるヒーローインタビュー

色:そんな『色川冬馬』はどうやって出来上がったのかというとですね、話は高校時代に遡ります。

先ほど話もした(母校の)聖和学園は当時、新設の野球部でした。聖和学園は他とは違うことをやっていてですね、1番最初入部したときに言われたのは「坊主やめようぜ」。ごめんね坊主の野球部いる中で(笑)。

これはみんなで常々言っていたのは、「なんで坊主なんだ。坊主にしたら勝てるのかーということをちゃんと考えていこうぜ」というところからスタートしていて、みんながしていることと同じことを我々がしなきゃいけないってこともないよなと。

これから歴史を作っていく―「球史創造(部訓みたいなもの)」-我々がどうあるべきか。そのひとつが坊主のいない野球部。

2つめが、グランドがない野球部。これは物理的な問題で(笑)。これはできたばっかりでグランドが準備できないと。でも幸運なことに室内練習場だけはありました。僕が3年生のときは120人くらい部員がいたんですが、内野1面もないくらいの室内でどうやって効率的に練習するか考えるなかで、監督もコーチも選手も本当に同じ方向を向いていた。監督やコーチが「これお前らやれよ」というんじゃなくて、みんな「どうする?どうする?」っていうチームだった。

もうひとつ。背番号が自由な野球部。なんで背番号って決まってるんだろうっていって、どうやって背番号決めようかって。打率が良いやつから1番でいいんじゃない?とか。ピッチャーは防御率が1番のやつから11番からにしようぜとか。

僕がやっていた当時はそんな感じでした。

新しいことをやるとみなさん(周りの人)どうなるか。新しいことをやろうとすると、”できない理由”を探す大人がたくさん集まってきます。

聖和学園も夏の大会に出ると「聖和学園、背番号がヘンだ」って注意されました。「坊主がいなくて見栄えが悪い」とも言われました。他と違うことをやろうとすると、こういうことってすごくあるのかなーと。

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あともうひとつやっていたことがあります。それは「社会に影響を与えるヒーローインタビューを練習していました。スポーツ選手って社会に影響を与える力って持ってるんです。例えば北島康介選手の「チョー気持ちい!」次の日全紙一面で、社会的影響力すごいですよ。そこで、自分の思っていること、伝えたいこと、次の世代へのメッセージを言えたらかっこいいよ。

僕は、こんな偉そうなこと言ってて甲子園も全国大会も行ってません。行けませんでした。でもこれだけは常に思っていました。「みんな”ストーリー”が一緒だなあ」と。

熱闘甲子園とか感動しますよ。泣けますよ。で優勝したチームが「ここまで監督さんと頑張ってきて良かったですう」みたいなストーリー。なんかもうそこで終わっちゃってるでしょそのこの人生が。プロ野球選手目指して野球を始めた子たちが、いつの日か、気づかないで目の前の「勝たなきゃいけない。勝たなきゃいけない…」。その結果苦しんでいる子をいっぱい見てきましたよ。

野球だけじゃなくてこれからの日本の教育とか、そういったところに関して、大きな危惧を持って活動しています。聞いている人たちがひとつでも多く選択肢を持つ機会につながればいいのかなと思っています。

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■野球をやりたいから、野球部を辞めた

色:仙台大学の野球部に進みますと、体育学部ということでいわゆる体育会系といいいますか、良くも悪くもひと昔前の、上下関係もしっかりしてて。なので僕の高校時代からの大学って全違う環境にぶっ飛んでいってしまったんですね。それは自分自身がしっかり(進路についてて)調べなかったっていうのもあるんですけど。

大学ではもう僕は日本一になるんだと、なって僕はプロ野球選手になるんだと思って入りましたよ。でもそこでまさかの…。ちなみに今日ここに仙台大学出身の人っていますか?(ひとり手を挙げるが)まあ彼は同級生なんで大丈夫なんですけど(笑)。僕、決して仙台大学批判しているわけじゃないんですけどたまに怒られちゃうんですけど…。

まー仙台大学の1年生って野球しないんですよ。これでもかってくらい、先輩のお手伝いに始まり、草刈とか、声出すとか。「毎日俺何してんだろ」って日々ですよ。

そのときに本当に思いました。「俺の野球人生ってあとどれくらいなんだろう」って。ご存知の通り僕はプロになることもなければ、どこかのドラフトにかかることもありません。ってことは、もしかしたらあと4年で野球人生終わるかもしれない。そう思ったら大好きな野球終わったあとどうしていくのかを考えるようになりました。

あとは最初も言いましたけど、グランドに行くのが楽しくない。野球が好きなのに、グランドに行けば僕は目立つから先輩によく怒られる。僕が授業で遅れてグランドにいなかったときも「おい色川ー!」って、いないのに怒られてたくらい(笑)。

そんな状況で「ああ、ここで自分の1年間を無駄にしてしまうくらいであれば、『野球したいから野球部辞めよう』」って思ったんです。辞めてどうすんの、アメリカ行っちゃおう、と。

 

チームマネジメントの面で考えれば、(百数十人の部員抱えてチームの勝利を目標にしていて)それで間違っていないと思います。それで成り立っているんで。でも、個人の人生とか個人のキャリアで考えたら、これじゃいけないって思いました。色川冬馬の(野球キャリアとして)1番大事な時期に草刈ってるんですよ。それでプロ野球選手になれると思う?「俺プロ野球選手になりたいよ、父ちゃん!」「よーし、草刈ってこい!」これはないんですよ。それに19歳で僕は気づいたんです。言い換えると、その他100人くらいそのことに気づいてないんですよ。なんなんだろうと思って、みんなのことが信じられなくなって、分からなくなって、結果野球部を出ました。そしたら、道が広がりました。

 

■改めて野球に恋をし直した瞬間

色:でも周りからは「無理だろ」ってすごい言われました。でも実際そうでした。

野球部辞めてから約半年、バイトとトレーニングと、自分で野球のやる環境探しながら頑張って、やっとアメリカついて、初めてのトライアウト。アメリカは60ヤードダッシュ。(約55メートル)があって、その2本目を走ったら、ハムストリングが切れましたよ。帰るまでチケットがあと1ヵ月くらい残っていましたよ。恥ずかしくてみんなに言えなかったですね。「ハムストリング切って何もしてない」なんて。日本にも帰りたくなかったです。

でもそこから気持ちを切り替えて、少しでもアメリカでしか学べないことを学べたらなーと思いまして、ジョーンズっていう友達にいろいろ教えてもらったりしました。最終的には彼に1万円を詐欺られるんですけど(笑)。

いろんな出会いも増えました。野球界の外に出てみて、違う情熱を持った人や分かり合える人、「こういう選択があってもいいじゃん」って分かり合える人、そういう出会いが多かったです。

あとアメリカで野球をしていて気づいたことが、「楽しかった」です。日本で野球をやっていたときは、環境も整っているし、何でもそろっていたし、スケジューリングもしてくれる人がいて、グランドに行けばなんでもできました。アメリカにチャレンジしているときは全くその逆なんですよね。やりたければ自分で行かなければいけないし、お金も払わなければならないし、せっかく契約を得ても1週間でクビになるようなこともあったんですよ。

明日が分からないような状況の中だったんですけど、とにかくあのグランドの匂いとか、透き通る空とか、あのアメリカのベースボールの雰囲気とか、改めて野球というスポーツに恋をし直した瞬間でした。

でそのときに僕が思ったのは、多分こういう選択肢があるってことを知ったら、今の中学生や高校生で幸せになる人や少なからず心が楽になる人っているんじゃないかなって。それが僕の活動のきっかけになっています。

ー続く