「懲罰は良くない」って、指導者同士の集まりとかで最近よく聞くんです。
まー学校やら野球の指導現場やらで、これだけ”体罰”が大きく取り上げられて社会問題になっています。
しかも”体罰”っちゃ、身体への暴力行為(「有形力の行使」といいます)だけでなくて、例えば「ずっと廊下に立ったなさーい!」とか「給食を食べ終わるまで席を立ってはいけませーん!」とか、どういう形であれ身体的な負担を相手にかけることを指します。
「吐くまで走る」とか練習の一環であろうと、これも度を越えれば普通に”体罰”として扱うことができちゃいます。
「漫画キャプテン」のキャプテンは体罰とパワハラの宝庫だったなあ(大好きな漫画です)
確かにそのやり方を肯定できないし「楽しむことが1番の上達方法」だと信じる私からしたら、常軌を逸してるとしか思えないんですが、その指導が合っているか間違っているかなんてのは、その指導を受けた本人のみぞ決められることなので、”どっちが正しいか”なんてことを議論するつもりもありません。
ただ、それだけ”体罰”を「例」とか取り上げながら「あれもこれも体罰に当たりますよー」と言い出したら、いよいよ指導する側はやりたいことがやれなくなるだろうな、と思うわけです。
「ビンタしちゃ駄目」なのは当たり前だけど、「教員を辞めることになってもビンタしなきゃならない」と思う瞬間だってあると思うんです。
ルールで縛るというのは、「ルールを破ったらこうなりますよ(懲戒処分がありますよ)」を決めるだけであって、別にあとは本人がどうするか決めたらいいということです。勝手過ぎますかね?
■「罰を与える効果」は2つに分けられる
体罰やハラスメントの問題化によって、弱者だった人たちが声を上げることができるようになった。
そんな中で体罰につながりやすい場面として「罰則」がある。
「〇〇した罰として〜〜」と上記のような”体罰”当たるような行為を強いる。
「罰」って基本的に聞こえが良くないし、”体罰”と同様にとられるもんで、今の指導者の人たちはこの「罰」を与えることを敬遠します。
でもちょっと待った!(やっと本題なんですけど…)罰には2種類あります。
それは、『苦痛や恐怖心を与えることを目的にした罰』と『モチベーションにするための罰」で、後者みたい使い方は、小さな勝負事やゲームをやるときには結構必要不可欠なものじゃない?
私はいつもゲーム性のあるもの(勝ち負けがつくもの)には「罰ゲーム」を入れてます。
腕立て伏せ5回、とかそんなのです。
さすがに「罰ゲームはやめてください」って直接言われたことは無いですが、ある指導者の話を聞いたり、ネットで指導についてのガヤガヤやっているところを覗いたりすると、いろんなものをひとくくりにして「罰ゲームは駄目でしょ。このご時世なんだから」って…。ババ抜き、罰ゲーム無かったら面白くないでしょ!!!…ババ抜きやらねーか。
そこらへんも、何が正解ってものはなくて、その人のセンスですよね。
最近コーチングには、「学」より「センス」が大事だな〜とつくづく思うタクトです。